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最高裁判所大法廷 昭和30年(あ)1984号 決定 1957年2月15日

主文

本件上告を棄却する。

当審における未決勾留日数中三六〇日を本刑に算入する。

理由

弁護人表権七の上告趣意は単なる法令違反、事実誤認または量刑不当の主張を出ないものであり、被告人の上告趣意も事実誤認、量刑不当の主張に帰するものであって、いずれも刑訴四〇五条の上告理由にあたらない。

また、記録を調べても本件につき同四一一条を適用すべきものとは認められない。

よって同四一四条、三八六条一項三号、刑法二一条により、主文のとおり決定する。

本決定は、裁判官垂水克己の補足意見並びに裁判官栗山茂、同真野毅、同小谷勝重、同谷村唯一郎、同小林俊三の少数意見を除き全裁判官一致の意見によるものである。

裁判官垂水克己の補足意見は次のとおりである。

一、量刑の基礎たる事情その証憑及び取調の限度、方法について、裁判所が犯罪事実を確定するには法定の手続に従い厳格証拠によらなければならないが、確定せられた犯罪について刑の量定をする(刑法所定の範囲内で刑の種類を選択しその分量を定める)にはどれだけの証憑(訴訟資料)を取り調べどれだけの事情を認定しなければならないかということについて、法は裁判所に対し一般に制限を設けず裁判所の裁量に任せている。何故かというに、

第一に、裁判所が量刑をするに当っては、確定せられた犯罪の悪性(反道徳性、反社会性)ないし犯人の悪性の程度について評価し、又将来における犯人の再犯予防のための教育・社会的隔離若くは懲らしめの必要性の程度或は更に一般予防若くは社会の正義公平感維持の必要性の程度について評価しなければならない。が、そのためには、裁判所は、最大限においては、犯人の性格、犯罪の個人的及び社会的原因、動機、状況、被害及びその賠償治癒事情、犯罪の社会的影響、犯罪後における犯人の心境、精神的及び肉体的状態、生活状態、刑の執行後の社会復帰能力、再犯の危険性、等について、又、宣告すべき刑の本人に与える効果、その家族・周囲ないし社会に与える影響、等々について考察しなければならないであろうが、最少限度においては、裁判所は確定せられた具体的犯罪構成事実の日時、場所、方法、態様、被害状況ぐらい並びに被告人の年齢、性別、職業、住居について考察しただけで足りる(例えば、或日或地点間を制限速度を時速八粁超過して車を走らせたごとき)。判決書に示される具体的犯罪構成事実以外に量刑の基礎たるべき事情として前述の最大限の諸事情を調査すべきか、右最少限の事情の認識をもって足りるか或はその中間のどれだけの事情の調査をすべきかは個々の事件の模様によって異る問題であって一律に論じ難い。調査の限度は当該事件の裁判所と当事者(終局的には裁判所)に任すしかない。且つ最大限の諸事情中調査の不可能なものがあり得る(例えば長年の経過や全被害者関係者の死亡の場合)と同時に、他面、或事情は公知の事実に近いため量刑の目的のためには特に証人尋問などをするまでもなく裁判所が認識し得ることがある(例えば或地方における炭鉱夫の生活、電車の混雑、主食闇運搬や覚せい剤密造授受の盛んな事情)。又刑務所に入れるべきか入れてはならないか、保護観察に付すべきかを判断する場合の如きは刑務所や保護観察の実情についての裁判所の一般的認識がなければならない筈であるが個々の事件毎に調査するを要しないであろう。その認識を欠いても必しも量刑に差支えるとは考えられない。要するに量刑の基礎たる事情はいわば際限なく広い事項に亘り、それについての裁判官の認識方法は必しも厳格であることを要求すべきでないのである。従ってその事情調査の限度は当該事件の当事者と終局的には裁判所に任すしかない訳であり、事情調査の資料は口頭弁論若くは訴訟記録に顕われた裁判上のものであれば厳格証拠であることを要しないのである。

第二に、量刑は犯罪又は犯人の悪性に対する評価又は科刑の必要性の程度についての評価であるから、第一審判決が認定した犯罪事実及び動機、態様、被害状況を控訴審がそのまま真実と認定しても第一審の宣告刑を軽きに失すると評価することは屡々あり得る。例えば第一審判決が被告人の生い立ち、生活、動機、心身の状態を判示した上被告人が利欲のため七人の子供を誘拐殺害した事実を認めてこれを懲役五年に処したのに対し、控訴審判決が第一審判決の認めた犯罪事実その他の事情の全部を認めてこれを引用しながら、しかも右の刑は軽きに失すると判断する場合の如きであって、控訴審に至って第一審の認識しなかった事情が認識せられるようになった場合と異る場合である。かような場合に第一審判決を破棄して適正とする刑を宣告することはまさに控訴審の純然たる事後審査作用でなければならない。殊に、右の場合当事者双方が第一審判決認定の事実及び情状を争わず立証もしない場合に、「第一審において証拠とすることができた証拠は、控訴審においても、これを証拠とすることができる。」のに、少数意見のように、控訴審が懲役一〇年ならよいが(?)無期懲役を宣告するには自ら事実の取調を行わなければ違法であり、さもなければ第一審に差し戻さなければならないという理由は何処にもない。又、同種犯罪(例えば食糧管理法違反)が世上に広く行われているという事情は刑を軽くする理由にも重くする理由にもなり得るのである。

犯罪事実の確定は真実の探究であって裁量の余地のない事柄であり、量刑は刑事政策的な要素を含むものであるから、或程度にしか認識できない事情によっても裁量は許されるのである。

二 立法例について、英米では普通事件で起訴せられた被告人は先ずアレインメント(罪状認否手続)において起訴状を読み聞けられ有罪であるとの答弁をしたときは裁判官は答弁の真実であるかどうかの審査をすることを許されず、イギリスでは、裁判所は原告側の主張事実と被告側の附加陳述するところを聴いた上刑を言い渡し、アメリカでは、陪審の有罪評決の場合と同様、裁判官は次に刑の言渡手続に入り刑を言い渡す。アメリカでは事件の半数往々にして八、九十パーセントは有罪の答弁で確定するといわれる。被告人が無罪の答弁をしたときはここに事件についての争が成立し陪審の面前におけるトライヤル(公判審理)において厳格な証拠調が行われその結果陪審は有罪又は無罪の評決をする。評決によってトライヤルは終了する。次に裁判官は、イギリスでは被告人に対し刑の言渡を受くべからざる事由があるかどうかを問い、被告人の経歴、素行、性格等の事情について証憑を調べる。被告人の素行については警察官が証人として尋問せられることが多く、又、伝聞証言も適法な証憑となる。アメリカでは陪審の有罪評決が終ると、裁判官は被告人に対し自己の利益のために陳述し刑の軽減を受けるべき事由を申立てる機会を与える。被告人は最終発言権を持つ。アメリカでは裁判所の保護観察(プロベーション)部は予め刑の言渡前又は宣告猶予の言渡前被告人の行状を調査し、アレインメントにおける被告人の有罪答弁若くは陪審の有罪評決があった後裁判所に提出する。報告書には少くとも被告人の犯罪経歴記録、性格、資産、素行等被告人の改善について参考となるべき事情についての情報を記載する。これらの報告は秘密に調査され報告書提出前には秘密に付せられる。

在来のドイツ・フランス法制も量刑事情については厳格な証拠によるを要せずとし、この主義が明治二三年以来のわが刑訴法において踏襲せられその資料は訴訟記録上に存するをもって足るとせられた訳である。

各国の制度において、第一審においてさえ、量刑の基礎たるべき事情についての資料とその調査方法とは以上のようにゆるやかなものであり、それは上述の量刑の本質から来るのである。

三 本件のような場合 本件では検察官が量刑軽きに失するという理由だけで控訴し被告人は控訴せず、第一審判決の認めた犯罪構成事実並に経歴その他の事実について当事者は争うところなく、そして、控訴審の口頭弁論において検察官は記録に基いての判断を求め、被告人は出廷せず、弁護人は第一審鑑定人を証人として尋問すべく事実調の請求をしたが裁判所は不必要として請求を却下し結審した。一般にかような場合に控訴裁判所は刑訴法三九〇条により被告人の出頭をその権利保護のため重要と認めて出廷を命ずることが適切といえる場合が多いであろう、そして出廷した被告人に陳述の機会を与えれば裁判所が或は事実調をした方がよいと思う場合も少くないであろうし、被告人の陳述を聴いただけでもよいといってもよいであろう、事実調をすれば一層得るところが多いことは殆んどすべての裁判官の経験するところであろう。しかしこれをするとしないとは控訴裁判所の決定権に属し、法はこれをなすべく裁判所を拘束しないから、これをしないことをもって違法というのはいわれがなく、誤である。控訴審が如何なる方法で審判すべきかは個々の事件における妥当性の問題として判断してよい、と法はいうのである。

一説によれば控訴審が被告人に公開の法廷で直接弁解する機会を与えて事実の取調をすることなく単に書面審理によってかような新しい刑を科することは許されていない、というが、然らば第一審において証人を調べた後裁判官が更迭したため弁論を更新した場合(これは陪審公判では先ずないことである)には、新らしい裁判官の面前でそれらの証人を尋問せず前の公判調書におけるその供述記載を証拠に供することは違憲であるというのであろうか。又、刑訴三九〇条、三九一条、三九四条はどうであるか。思うに、刑事訴訟における各審級の裁判管轄権は一種の分業職務分担であって、事実についての取調は各審級において直接審理をしなければならないものではなく、始審は直接審理、上訴審は書面による事後審査という制度を採ることも憲法の否定するところではない。又、量刑事情についての調査がゆるやかであっても違憲、違法ではないのである。

ちなみにいう。現行刑訴法は旧刑訴法と異り第一審を完全審理とし、控訴審を事後審査審としている。英米のような陪審制の下では初の陪審の評決の事実誤認を争い他の陪審に再度の公判審理をさせる一般的覆審控訴制度は採用のかぎりでない。けだし、後の陪審が初の陪審よりも組織・人選において優れている根拠はないからである。だから陪審制の審判は一回性のものでしかあり得ず、従って事実問題、量刑問題での控訴審は極めて重大な誤判に対して例外的にしか許されない筈のものである。英米において控訴制の発達を見ないゆえんである。イギリスの刑事控訴裁判所がロード・チーフ・ジャスティスその他の比較的少数の裁判官だけで構成せられイギリスにただ一つしかなく控訴は裁判所の許可があった場合にのみすることができ、事件は極めて少ないのも当然である。事後審査制を専職裁判官裁判所であるわが控訴審に用いたねらいはやはり第一審を迅速な完全審理審にしたいためと思われる。今若し種々の場合に控訴審において事実の取調を行うべきものとするときは、それはやむを得ないことではあろうが、事後審査審は覆審的傾向を強くし反面に第一審は弱体化せられることを免れないであろう。何となれば、当事者は簡易裁判所判事又は地方裁判所の単独裁判官の審判よりも控訴裁判所の合議体の審判を受けそこで勝利を占めたいと願うであろうから。さすれば控訴審の事後審査制のねらいは失われるであろう。

裁判官栗山茂、同真野毅、同小谷勝重、同谷村唯一郎、同小林俊三の少数意見は次のとおりである。

原判決は、第一審が本件被告人に言渡した懲役一五年に処する旨の判決を破棄自判し、被告人を無期懲役に処する旨言い渡したのであるが、記録によれば、その手続は書面上の調査のみによったのであって、事実の取調を行った形跡は認められない。このように第一審の懲役一五年に処する旨の判決を第二審において破棄し自判によってこれを無期懲役に処する旨の判決に改めるには自ら事実の取調を行うことを要し、さもなければ第一審に差し戻すべきものである。この点において原判決は違法たるを免れないから破棄すべきものである。

なお裁判官栗山茂、同小谷勝重、同谷村唯一郎、同小林俊三は、昭和二六年(あ)第一六八八号同三〇年六月二二日大法廷判決(判例集九巻八号)において述べた少数意見の趣旨をそれぞれここに引用する。

裁判官栗山茂は次の意見を附加する。

刑訴四〇〇条但書に関するわたくしの意見(判例集九巻八号)をここに改めて補足し併せて右意見に対する批判(前記垂水裁判官の補足意見参照)にも答えることとしたい。

わが憲法下では、刑事事件においては、公開の法廷で、被告人の面前で直接証拠調をするいわゆる事実審理(以下事実審理とはこの意味にのみ用いている。)をするのでなければ、生命自由をうばわれその他の刑罰を科せられないものとされている(憲法三一条)。すなわち刑罰を科することと事実審理(トライアル)とは不可分の関係にある。これはわが憲法の根本原則であって同時に現代文明国における刑事裁判の原則であると思う。それ故控訴審においては旧刑訴下におけるように覆審制を採用しない限り新に刑罰を科する裁判をすることは許されないのである。と同時に口頭主義と直接主義とによって人権を擁護する刑事裁判の本質上民事裁判のように控訴審をして継続審たらしめることはできないと思う。同じ事実審においてすら開廷後裁判官がかわったときは刑訴三一五条によって公判手続を更新しなければならないことになっている(更新の手続については刑訴規則二一三条の二参照)。すなわち更新前に訊問した証人の供述についてはその供述を記載した公判調書を更に適法に証拠調しなければこれを事実認定の資料とすることは許されないのである。まして同一裁判所でもなく、しかも事後審である控訴審において原審における証拠について証拠調もせず直ちに犯罪事実の認定ができるとすることは憲法が保障している刑事裁判の本質に戻る見解と言うことができる。わが憲法は個人の基本的人権の保障を全うしつつ交互尋問により事案の真相を明にする事実審理を保障しているから、刑訴法はこの憲法の精神に則り第一審に重点をおく建前をとっておるのである。そして第一審に重点をおく以上は控訴審を覆審とすることは避くべきであり又継続審とすることは許されないから、第一審の裁判に誤りがないかどうかを事後審査(レヴュー)する制度を採用したのである。そうして事後審査の性質上口頭主義又は直接主義の適用を要しないから、被告人は公判期日に出頭することを要しないことになっている(刑訴三九〇条)。その他刑訴三八七条、三八八条、三八九条、三九一条のような条規は控訴審が事後審査をする制度に伴う当然の規定である。更に控訴裁判所は控訴趣意書に包含された事項を調査するについて必要があるときは事実の取調をすることができることになっている(刑訴三九三条)。これも専ら事実審の裁判に誤りがあるかどうかを調査するための事実の取調べであって、ここにいう事実の取調というのは例えば刑訴四三条、四六〇条に用いられている事実の取調と同じ意味であって必しも証拠調を意味するものでない。この事実の取調をしたからといって控訴審の性格をかえて事実審とし又は継続審とするものでないことは明である。次に第一審において証拠とすることができた証拠は控訴審においても、これを証拠とすることができる(刑訴三九四条)というのは、あくまで控訴審が事後審として第一審の裁判に誤りがないかどうかを調査する限度において証拠とすることができる趣旨と解すべきである。例えば裁判官又は検察官の面前における供述録取書の証拠能力について第一審の審理当時には供述者が所在不明であり又は国外にいるため特別の事情により証拠とすることができたのであったが、控訴審における調査の際は供述者の所在が明となり又は国内に戻って来た結果特別の事情がなくなったため、控訴審が覆審であれば刑訴三二〇条の原則に立ちかえるべきであるが、事後審として第一審の裁判に誤りがあるかないかを調査する限度においては証拠とすることができるとしなければ事後審査の機能を発揮することができなくなるのである。それ故これらの規定から第一審の事実審理を保障している憲法の条規(三一条、三七条)を排除して、控訴審では書面審理で刑罰を科することができると誤解すべきではない。かように刑訴法の下では控訴審は事後審であるから、刑訴三七七条乃至三八二条及び三八三条に規定する事由があるときは、判決で原判決を破棄した上、事件を原裁判所に差し戻すか若しくはそれと同等の他の裁判所に移送しなければならないのである。

ところで、刑訴四〇〇条但書は「控訴裁判所は、訴訟記録並びに原裁判所及び控訴裁判所において取り調べた証拠によって、直ちに判決することができるものと認めるときは、被告事件について更に判決をすることができる。」と規定している。しかしこの規定は被告人の基本的利益を害しない限り訴訟経済の建前から自判することを認めていると解すべきであって又他方わが訴訟法上検事控訴を無制限に認めているとしても(憲法三九条末段の解釈については再検討すべきものと思う。判例集四巻九号一八一〇頁所載卑見参照)之又憲法の保障の範囲内で運用さるべきことは言うまでもない。すなわち控訴審が訴訟経済の上から、刑訴四〇〇条但書によって破棄自判する結果が、被告人にとっては新に刑罰を科せられると同一結果になる場合(無罪を有罪とし、執行猶予のかわりに実刑を科し又は一審の刑を加重する場合)は事件を原審に差し戻し又は原審と同等の他の裁判所に移送して、被告人をして憲法が保障している事実審理の利益を享受せしむべきである。公開の法廷で、被告人の面前で直接証拠調をする事実審理をするのでなければ、生命自由をうばわれその他の刑罰を科せられないという憲法の基本的保障がある以上は、訴訟経済の建前でできている刑訴四〇〇条但書はこの保障に適するように運用すべきである。しかるに不幸にして刑訴三九〇条乃至三九四条等の規定を文理解釈して憲法の保障を乗りこえて事後審たる控訴審の性格を無視する裁判が行われる結果、旧刑訴の覆審に対する郷愁の非難が起るのである。それは現刑訴法による制度が人権を擁護し且つ事案の真相を究明するのに旧制度に比して遥に合理的なのにもかかわらずその運用を誤っているからである。

なお裁判官小林俊三は次の意見を附加する。

私は従来刑訴四〇〇条但書の解釈につき、第一審無罪の判決を第二審で破棄自判により有罪とする場合について前記のような意見を主張し、なお第一審の他の刑を第二審で死刑とする場合、第一審の執行猶予を第二審で実刑とする場合をもこれに準じ考えなければならない旨の主張をくりかえして来た(昭和二七年(あ)第五九七号同二九年六月八日第三小法廷判決及び前記大法廷判決における私の少数意見参照)。しかし右各場合に述べたと同趣旨の基本的理由により、本件のように第二審が、第一審の量刑軽きに過ぎるとする検察官の控訴を容れ、自ら新たに刑を量定し第一審の刑より著しく重い刑を言渡す場合にも、同様に考えなければならないことを主張する。そしてここにいう第一審の刑に比して「著しく重い」とは、単に第一審の量刑を修正する程度を越え、その変更が被告人の行為に対し全く新たな評価に基かなければなし得ないと認められるような場合を指すのである。かかる場合は、罪となるべき事実そのものは、第一審の認定と異なるところはないとしても、少くとも犯罪の情状について全く新たな評価に到達したと見るべきであるから、これを単に書面審理のみによって行うことは許されないと解するを相当とする。けだしこのような場合は、被告人が直接審理主義、口頭弁論主義の適用を排除されない最少限度の利益を有する場合に当ること、前記他の場合と異なるところはないから、被告人になんら特段の防御方法を講ずる機会を与えず、一方的に第一審より著しく重い刑を科することは許されないのである。(別項垂水裁判官の補足意見は、もっぱら第二審の量刑の裁量一般に関する理論であって、その点につき少数意見を批判するものと解されるが、私見に関するかぎり、量刑の裁量の一般について第二審は常に事実調することを要するなどとは主張していない。ただ本件のような場合は、第二審が無罪を有罪とする場合について述べた基本的理由に準じて考えるべき特殊の場合だというのである。元来本件のような意見の対立は、基本的な問題として第一審無罪の判決を第二審で有罪とする場合について考えられるのであるから、まずこれについて論じるべきものであって、この基本的場合は、量刑の裁量の場合とはその性質を全く異にし、その比重において較ぶべくもないのである。従って第二審の量刑の裁量についての理論は、その前にまず右の基本的場合についていかなる見解に立つかを明らかにしなければならないと考える。さもないと少数意見についても問題の本質そのものを離れた批判を受けることになり、また互いに理解を逸するおそれが十分にあると思う。)

なお裁判官真野毅は次の意見を附加する。

第一審判決が犯罪事実の存在を確定せず、犯罪の証明なしとして無罪を言い渡した場合に、控訴裁判所が右判決を破棄し、何等事実の取調をすることなく、訴訟記録及び第一審裁判所で取り調べた証拠だけで直ちに被告事件について犯罪事実の存在を確定し有罪の判決をすることは、刑訴四〇〇条但書の解釈として許されないところである。そしてこれは、すでに大法廷判決が数次にわたり示したところのものである(昭和三一年七月一八日判決、判例集一〇巻七号一一四七頁、同年九月二六日判決、判例集一〇巻九号一三九三頁)。この判例の理由とするところは、起訴の罪責なしとした第一審の「判決に対し検察官から控訴の申立があり、事件が控訴審に係属しても被告人等は、憲法三一条、三七条の保障する権利は有しており、その審判は第一審の場合と同様の公判廷における直接審理主義、口頭弁論主義の原則の適用を受けるものといわなければならない。従って被告人等は公開の法廷において、その面前で、適法な証拠調の手続が行われ、被告人等がこれに対する意見弁解を述べる機会を与えられた上でなければ、犯罪事実を確定され有罪の判決を言渡されることのない権利を有するものといわなければならない。それゆえ本件の如く第一審判決が被告人の犯罪事実の存在を確定せず無罪を言渡した場合に、控訴裁判所が第一審判決を破棄し、訴訟記録並びに第一審裁判所において取り調べた証拠のみによって、直ちに被告事件について犯罪事実の存在を確定し有罪の判決をすることは、被告人の前記憲法上の権利を害し、直接審理主義、口頭弁論主義の原則を害することになるから、かかる場合には刑訴四〇〇条但書の規定によることは許されないものと解さなければならない」というにある。

そして同判決においては、その結びにおいてわざわざ「そして刑訴四〇〇条但書に関する従来の判例は右解釈に反する限度においてこれを変更するものである」と断わっている。この刑訴四〇〇条但書の解釈と憲法三一条等との関係は、随分以前から話題になっていた問題であるが、例の三鷹事件を契機としてその後においても一層深い考察が加えられ、その結果控訴審における新らしき犯罪事実の認定については、従来の判例態度を変更して前記のような大法廷の判例が確立されるに至ったのである。

さてわたくしは、一審よりも重い刑を新らしく量定する場合についても、全く同様の理由によって、同様の結論に達すべきものと思う。すなわち、控訴裁判所が第一審判決を破棄し、何等の事実の取調をすることなく、訴訟記録及び第一審裁判所で取り調べた証拠だけで直ちに被告事件について第一審の刑よりも重い刑を言い渡すことは、刑訴四〇〇条但書の解釈として許されないものと考える。

しかるに、同じ七月一八日に大法廷の多数意見は、第一審の執行猶予の判決を破棄して控訴審で実刑を科した別件につき、「控訴審が検察官からの第一審判決の量刑は不当であるとの控訴趣意に基き第一審判決の量刑の当不当を審査するにあたっては、常に控訴審自ら事実の取調をしなければならないものではなく、訴訟記録及び第一審に於て取り調べた証拠によってその量刑の不当なことが認められるときは、控訴審は自ら事実の取調をしないで、第一審判決の刑より重い刑を言渡しても刑訴四〇〇条但書の解釈を誤ったものということはできない」と判示している(昭和三一年七月一八日判決、判例集一〇巻七号一一七七頁)。冒頭にかかげた新らしい有罪事実の認定に関する大法廷判決は、詳細に理由を述べているのに反し、量刑に関するこの判決はこのように極めて簡単であって、何故に有罪事実の認定と刑の量定について取扱を異にしなければならないかの理由に関しては、黙して何も語っていない。だから格別取り押さえどころはない。がわたくしは、この判決は前者の判決に詳細に語られている理由そのものと明らかに矛盾する大きな欠陥があると考える。

冒頭の有罪事実の認定に関する判決の理由は、要約すると控訴審においても被告人は憲法三一条、三七条の権利を有し、その審判は第一審の場合と同様の公判廷における直接審理主義、口頭弁論主義の原則の適用をうけるというにある。憲法三一条は「何人も法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」と定めている。同条は科刑に関し適正手続すなわち現代刑事訴訟の基本原則である直接審理主義、口頭弁論主義等による審理手続を保障したものである。言いかえると、この保障は科刑(ペナルティ)に対して与えられたものである。そこで裁判上「刑罰を科する」には、一面において有罪事実を認定し、他面において刑を量定することが必要である。この事実認定と量刑とは、科刑の両翼をなすものであって、その一方だけで科刑ということは有りえない。(稀には判決において有罪事実の認定がなされておりながら、量刑がなされていない場合がある。これは真の科刑というものではない。例えば、かのプラカード事件の第二審判決は、有罪事実を認定した上で、大赦を理由として被告人を免訴している(判例集二巻六号六〇七頁)。憲法三一条は、明文の示すとおり科刑に対する保障である以上、科刑の両翼たる事実認定と量刑とは共に、同条の保障を受けるが当然である。されば事実認定について同条の保障あることを詳しく説明した冒頭判決の理由は、量刑についても妥当するものといわなければならぬ。

あるいは、事実認定の問題は重いが、量刑の問題は軽いと考えるものがあるかも知れない。なるほど有罪事実の認定がまずなされて、次に刑の量定の必要が起って来る。有罪事実の認定がなければ、量刑の問題は起らない。ただこのことから、事実認定の方は重要であって憲法三一条の保障をうけるが、量刑の方は軽いから同条の保障をうけないと速断して差別的取扱をすべきものではない。これは全く観念論的な物の考え方である。よくつぶさに脚下を照らしてあまねく現実を見るがよい。有罪となる被告人は、無罪となる被告人に比しいかに圧倒的に多いか、また公判廷において起訴事実を素直に認める被告人は、これを否認して争う被告人に比しいかに多数であるかは、東西の司法統計資料が常に極めて雄弁に物語っているところである。これによっても被告人の大多数のものにとって裁判上の重大関心事は、事実認定の問題ではなく、実はむしろ量刑の問題に帰するのである。だから、量刑の問題こそは、裁判の実際において最も多く考慮が払われなければならぬのが現実というものである。この現実に立てば、事実認定が憲法三一条の保障をうけるだけで、量刑が同様の保障をうけないような片翼的な偏った司法の運営では、国民の基本的人権は十分に保護されるとは言いえない。例えば、スリの犯罪事実を控訴審で新たに認定するには書面審理では許されないが、三鷹事件のように一審の無期懲役を控訴審で死刑に変更するには書面審理だけで許されるというのであっては、すこぶる不権衡な取扱方であって、人権の保障にははなはだ事欠ける憾みがあるといわなければならぬ。

ここにまた、事実認定と量刑の取扱に差別をおく理由づけとして、事実認定は、真実の探究であって裁量の余地のない事柄であるが、量刑は裁量が広く許される事柄であるとする見解があるが(垂水裁判官)、賛同できない。この見解には二つの点の欠陥がある。(一)一つは、事実認定は裁量の余地のない事柄だとする点であり、(二)他の一つは、量刑は裁量であるから常に違法の問題は生じないと考える点である。

しかし、(イ)事実認定もまた裁量によるものであり、(ロ)量刑は裁量ではあるが、二審で重く科刑する場合には憲法三一条の要請によって直接審理主義、口頭弁論主義の手続を通して量刑の裁量がなされることを要し、これに違反すればその裁量のやり方が違法となるわけである。この関係をすこし詳しく述べてみたい。犯罪事実の認定は、歴史的事実としての真実の探究・発見にあることはもちろんであるが、このことから直ちに事実認定は、「裁量の余地のない事柄」であると速断することはできない。科学的な正確な方法で例えば精密機械の操作によって過去(一定の近い過去でもよいが)の歴史的事実を的確・自由に再現しうるよう人知が進歩しない限り、そして現行の裁判官による証拠裁判の手続でいく限り、人的証拠であれ物的証拠であれ証拠能力の問題は別として、その証拠価値は価値判断の対象として結局(経験則違反の問題を生じない場合には)裁判官の裁量にまかされることとならざるをえない。かように証拠の価値判断が裁判官の裁量にまかされている以上、いわゆる証拠裁判すなわち証拠の価値判断に基づき証拠の取捨選択をすることによって真実として発見される事実認定そのものもまた究極において裁判官の裁量にまかされているのである。一般に事実の認定は、事実審裁判官の専権に属するといわれているのは、この意義を有するものである。事実の認定は、真実の探究であって裁量の余地のない事柄であるという見解は、目的と手段を混同した議論である。事実の認定は、真実の発見を第一義の目的とする。しかし、この目的を達成するための手段としては、証拠によることを要し、証拠を取捨選択するには証拠の価値判断をすることを要し、証拠の価値判断は結局裁判官の裁量によることを要する。現時の証拠裁判制の下においては、証拠能力の法規と経験則に反せざる限り、事実認定は、すべて裁判官の裁量にまかされていることは明白である。

次に、刑の量定もまた同様に、原則として裁判官の裁量にまかされている。事実の認定と刑の量定はもとより目標を異にするが、手段として裁量によることは同一であるのみならず、その裁量は証拠の価値判断を基本とすることも同様である。(ただ現行刑訴法の上では有罪事実認定の証拠は判決にかかげることを要するが、量刑の証拠はその必要がないとされている差があるだけのことである。)そして事実の認定についても、刑の量定についても、裁判官の裁量は、現代刑事訴訟の基本原則である口頭弁論主義、直接審理主義をとおしての上の証拠の価値判断を基本とすべきものであって、原則として単なる書面審理による証拠の価値判断を基本として裁量することは許されていない。憲法三一条は、まさにこの意義を含むものであって、人類多年の努力と経験によって確立せられた現代刑事訴訟の基本原則である直接審理主義、口頭弁論主義は憲法においても保障するところであり、かかる適正手続によらなければ刑罰を科せられないことが基本的人権として保障されているものと解すべきである。直接審理主義、口頭弁論主義による証拠の価値判断と単なる書面審理によるそれとは往々にして異る。一例をあげれば、直接審理主義、口頭弁論主義をとおして証人尋問をした裁判官は、証言の内容の外に証人の顔色、目色、音声、表情の変化、発言の態度などについても直接仔細に観察することができる立場にあって、これらを総合して陳述内容の価値判断をするのであるから、いかに証言の内容が秩序整然として外観上一糸乱れぬものであっても、端的に偽証を観破しその証言の証拠価値を認めないこともあるであろう。またこれと反対に、証言の内容は、尋問に応じ幾変転しているが、それは当初の記憶の不明確なことによるものであって、尋問の進め方で徐々に記憶を喚びさまし、最後の陳述が真実に合するものとしてこれに十分な証拠価値を認めることもあるであろう。この場合裁判官は生きた証言を聞いて心証を形成することになる。ところが、控訴審で書面審理だけで証拠の価値判断をするとしたら、裁判官は紙の上の死んだ証言を眺めて心証を形成する外はないから、前者の調書上秩序整然たるものに証拠価値を認め、後者の調書上供述の変転したものに証拠価値を認めないこともあるであろう。ここに人類の知恵として裁判殊に刑事裁判における直接審理主義、口頭弁論主義の必要性が強調せらるべき根本理由が存するわけである。

本件においては第一審判決は懲役十五年であったが、第二審判決はこれを破棄して無期懲役に処した。書面審理の手続だけでかように一審より重い刑を科した原判決は違法であるから、破棄して原審に差し戻すを相当とする。

(裁判長裁判官 田中耕太郎 裁判官 栗山茂 裁判官 真野毅 裁判官 小谷勝重 裁判官 島 保 裁判官 斎藤悠輔 裁判官 藤田八郎 裁判官 岩松三郎 裁判官 河村又介 裁判官 谷村唯一郎 裁判官 小林俊三 裁判官 本村善太郎 裁判官 入江俊郎 裁判官 池田克 裁判官 垂水克己)

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